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マエルの航海日誌(Le voyage de Maelle)

第7回 カナリア諸島へ向けて(2006年7月7日)
掲載月:2007年3月

1型糖尿病のマエル

(マエルの母より)

ポルトガル南部の港から出航。カナリア諸島までは4、5日の予定。目的地までずっと軽い風が吹いて、私たちの味方をしてくれるだろうという楽観的予測が当たればの話だが。出航からしばらくの間は、ジブラルタル海峡を渡ってくる東風のせいで、マデイラ島までの広い海域にうねりが発生しており、海が荒れていたが、それも数時間のことだった。海が少し落ち着いてくると、風はこちらの思惑どおり。帆を調節して、自動操縦に切り替える。こうしておくと船は自動で目的地に向かって航海を続け、操縦から解放された私たちは何か他のことができる。

これからの航海に備えて船内を整えている間に、午後はあっという間に過ぎた。その日の夕方、イルカの群れが現れ、ちょうど船首の前を泳いでいく。ときおり、水面からジャンプしながら。イルカ達の方向感覚の正確さには、驚くべきものがある。なにかにぶつかることもない。生まれながらに備わっている音波探知機能のおかげだ。太陽が海の向こうに沈むと、あたりは闇に包まれた。月明かりもない漆黒の夜である。その夜、私たちの船が取っていた進路は、地中海を出た貨物船や、そこに向かう貨物船の進路にもあたっていたので、特に注意が必要だった。マエルはその日最後の注射のあと、ベッドにもぐりこみながら、明日は海が荒れなければいいね、と漏らした。結局、その夜、私たちの周りをかなりの数の貨物船が行きかい、ときには大事をとって進路を変えたりしたので、のんびりする暇はなかった。マストのてっぺんに航海灯をつけてはいたが、だからといって安心はできない。海上では、セイルボートに先行権があるのだが、貨物船のような大きな船は小回りがきかないので、注意を促すためこちらから無線で連絡をすることにしている。どうにか、事故もなく、夜が明けたときには、ほっとした。風は弱まり、波も少しだが穏やかになっている。私たちの船は、カナリア諸島に向け、快適な航海を続けた。

水平線の向こうから太陽が姿を現すと、朝日を受けてきらきらと色づく海を前に、その美しさに我を忘れてしまう。こんな日には、はるか水平線まで見渡せる。視界をさえぎるものなど何もなく、どこまでも広がる大海原に身も心も解き放たれる気がした。この身体が、自然の一部になってその中に溶け込んでいくような一体感は、言葉で言い尽くせない。マエルの通信教育はお休みの期間に入っていて、寝坊してもいいことになっており、9時ごろ起きて来ると真っ先に舵に駆け寄り、風や波の具合をチェックする。

それから、3人揃っての朝食。たとえ昼夜を問わず船の番に立たなければいけない航海中であっても、食事は規則的に摂るよう心がけている。大人たちが間食をするときは-例えば嵐に遭ったときなど、体力を消耗する作業が続き、どうしてもおなかが空いてしまうのだ-マエルの前で食べないようにしていた。私たちが食べるのを見て、決められた時間以外に決められた以外のものを口にするようなことがあってはいけないから。毎日のことだが、天気予報をチェック。風は暫く今の状態のまま、この先、悪天候に見舞われるような兆しはどこにもない。お昼までに、海軍のフリゲート艦、護衛艦と行きかう。私たちの船はちょうど演習海域ぎりぎりのところを航海中だった。演習海域は航海用海図に印がつけられていて、付近を航海する船は進入しないよう気をつけなければならない。マエルは本を読んだり、遊んだり、私たちを手伝ってコンパスで進路を調べたり、船の位置を確認したり。目的地に着くまでの距離をいつも正確に知りたがるのだ。立派なもので、大人たちが他のことで忙しいとき喜んで船の番を替わってくれる。舵の前に陣取って、水平線に眼をこらすのだ。貨物船に衝突するようなことがあったら大変だと、十分に認識しているのだろう。

その夜、GPS(global positioning system/全地球測位システム)が点滅を始めた。しかも、現在の位置を示すことが出来なくなっている。突然のアクシデント。また、動き出したと思ったが、示している船の位置が正確ではない。夫がアンテナや接続を調べてみるが、どこにも異常は見つからない。中も調べてみるが、そこにもいつもと違うところは見当たらなかった。まさか、大航海時代さながら六分儀や星座表を頼りに面倒な計算をして船の位置を確認しなくてはいけなくなってしまうのか、と馬鹿げた考えが頭をよぎる。結局、推測航法を試みることにして、定期的に船首の向き、スピード、それまでの航海距離を記録する。2,3時間ののちだっただろうか、貨物船が通りかかったので無線で状況を説明し、GPSのデータを送ってくれるよう頼んでみるとすぐに返事をくれた。一方、夫はというと、負けを認めたくなかったのだろう、GPSを修復しようと躍起になっていたのが、ついに成功したようだ。システムを初期化してみると、なんと、元通りに正確な船の位置を示している。が、偶然かも知れず、安全策を取ってしばらくは推測航法での航海を続けることにした。ところが、GPSが直ったかと思うと今度は自動操縦システムが変な音を発して、完全におかしくなってしまった。ギアが壊れたのだ。替えはあるのだが、システムを分解して交換している余裕などない。24時間、自分たちで船を操縦するしか道は残されていなかった。2時間ごとに交代したが、他の用事をする暇がなくなり、集中力を要するせいか、疲労もかなりのものであった。

血糖測定を忘れそうな程マグロ獲りに熱中

翌朝、キジバトが前方の甲板に舞い降りた。ちょうどモロッコ沖150カイリの地点であった。おそらくかなりの距離を飛んできたのであろう、1日甲板にとどまり羽を休めていたが、マエルが与える水を飲み、砕いた米粒を喜んだかのようについばんだ。そのあと、飛び立ったかと思うと、風力発電機の覆いの上に陣取り、2日の間、どこかに飛んでいっても必ずそこに帰ってきていた。私たちのもとを去るときは、お別れを言っているつもりだったのか、船の周りを数回回ってから、飛び去っていった。6月5日、世界環境デーのことだ。流し釣りのつもりで、船の後ろに釣り糸を2本垂らしていたのだが、かかったのは、プラスティックの袋と、がらくただけ。悲しいことだ。毎日ウミガメを見かけたが、おそらくCape Verde(カーボベルデ)諸島に向かっているのだろう。夏の間、夥しい数のウミガメがそこで産卵するのだ。ウミガメは、海に投げ捨てられたプラスティックの袋の最大の犠牲者である。普段食料にしているクラゲと間違ってしまうのだ。

マグロの一群がしばらく船についてきていた。ちょうど船体の下にいたので、釣竿を用意し注意を引くため、カラフルなルアーを投げ込んでみる。が、全く無視された。それでもめげないマエルは、私たち夫婦のうち舵とりの番ではない方と、この挑戦的なマグロを1匹捕まえてやろうと釣り糸を垂らし続けた。血糖測定を忘れてしまうのではないかと思うほどの集中ぶりだった。しかし、この根気は報いられることはなかった。収穫ゼロ。

眠りの中で、どこかからうなるような音が規則的に響いているのに気づいた。船の揺れも感じなければ帆に当たる風の音もしない。まだ夢の中なのだろうか?違う、多分夫がエンジンをスタートさせたのだ。何が起こったのだろう?毛布をはねのけ、デッキに出てみる。風がぴたりと止まってしまっていた。海面は板のように平らである。エンジン音から推測すると、スピードは最も遅く設定されているようだ。このまま凪が続けば、カナリア諸島までずっとエンジンに頼らなくてはならなくなり、燃料切れという最悪の事態を招きかねない。いったん海に出ると燃料補給は不可能だ。だが、心配してもどうにもならない。海は穏やか、舵の心配も要らず、存分にウミガメの観察ができた。南下するにつれどんどんその数は増えている。舵の番をしながら見渡していると、海中に大きな黒いものが見えた。なんと、クジラである。眠っていたようだが、船が近づくと目を覚まし、あっという間に海底に姿を消した。当然の反応だろう。このあと3頭を見かけたが、そのたびにわくわくしたものだ。この航海中に見かけたクジラは、全て1935年に正式に保護下におかれるまで乱獲されていた種であった。マエルはクジラを見てその大きさに感心していたが、少しだけ心配そうに、船になにかしないかと聞いてきた。何もしないよ、と安心させてから、クジラには敬意を示すべきで、特に子育て中のお母さんクジラを見かけたらある程度の距離を保つべきだと教えてあげた。

エンジン走行を続けてから2日後、軽い風が吹き始めた。その頃にはもう、はるか彼方ではあるが、カナリア諸島が見え始めた。はじめは島影が、そして徐々に水平線に見えるその姿は大きくなってくる。まもなく到着なのだ。“明日の朝、目を覚ましたら、どんな風景が見えるの?”とマエルは大はしゃぎである。彼女にとって、トラブルもなく、うまく行った航海であった。血糖値を通常に保つためにインスリンの投与量を変えることも殆どなかった。今回は、ポルトガルを出発する前の何日間か、運動量を減らし、必要に応じてインスリンの量を調整していた。これが、陸での運動量の多い生活から、海上での比較的運動量の少ない毎日への移行をスムースにしたのだろう。船酔いも起こさず、いつもどおりに食べてくれたので、私たちも大いに助かった。午前6時、カナリア諸島最大の島、ランサローテ島アレシフェ港に碇を下ろす。小さいながらにぎやかな港である。ちょうど明るくなって来る時間で、家々の屋根の上には、この島に点在する火山の円錐形の姿をみとめることができた。

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